第一部 2000年6月くも膜下出血の発症から自宅復帰まで(2000年6月5日〜2000年12月5日) |
未だ執筆途中ですが、全体が完成するまでずっとオープンしないのも良くないと思い、できたところまでで随時公開して参ります。 なお、看病及び介護の記録はメールマガジンにて連載してゆきながら、その内容を本サイトに整理・掲載していく予定です。 よろしければ、メールマガジンへの読者登録をお願いします。 |
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5 突然の発症と緊急手術 |
6 手術後面会 |
7 2日目の容態 |
8 3日目の容態 |
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10 合併症(肺炎) |
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12 医師より説明 |
13 術後検査実施 |
14 一般病棟へ |
15 検査結果報告 |
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18 反応する |
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20 呼吸器 |
21 医療費支払 |
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23 明確に返答する |
24 呼吸器外れる |
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26 一般病室へ |
27 会話可能 |
28 リハビリ開始 |
29 医師より説明 |
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■ 日 々 の 記 録 ■ |
2000年6月5日 入浴中の突然の発症と緊急手術 |
※ 今振り返って思うこと 当日は特に変わった兆候のようなこともなかったと思うのですが、入浴前にちょっとした口論があり、それが悪かったのかなあと悔やむことがあります。 発見した時のことは今でもかなり鮮明に覚えています。 特にA男の荒い息づかいは救急車が来るまでの間、風呂場に響きわたり、私を一層焦らせました。 後々、痛感したことは、風呂場の扉は引き戸か折り戸にすべきであること。 今思えば、当たり前のことではありますが、当時はまだその必要性を感じられませんでした。 まだ、そんなことを心配する必要がある程の年齢とは誰も思ってもいませんでしたから・・・。 |
2000年6月6日 手術後、救命救急センターで面会 |
※ 今振り返って思うこと 手術の立ち会い、集中治療室への入室等々、全てが初めての経験でしたので、不安を募らせながらとても長い夜を過ごした記憶があります。 また、時間帯や展開が、まるでテレビドラマのようであったため、現実であることがピントこないようなところも正直ありました。 集中治療室で手術後初めて面会でき、最悪の事態は免れたものの、先々のことを考えると見当もつかない状態に変わりはなく、ただ信じながら動いていたような感じです。
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2000年6月7日 発症2日目容態 |
※ 今振り返って思うこと 血の滲んだ包帯に包まれた頭部、ベットにつながれた両手両足、手や足首への点滴、ベット周辺の医療機器がだす不規則な”ピッ・・、ピッ・・・”という音等、当たり前ですが、救命救急センター内はなかなか心休まるところではないです。 ただそういった状況でも、スタッフの方に元気良くまた頼もしく対応して戴けたので、とても安心できたように記憶しています。 |
2000年6月8日 発症3日目容態 |
※ 今振り返って思うこと 患者が若年者の場合には当然「老人医療証」を持っていない訳ですし、自己負担比率も異なりますから、ここで紹介している金額以上を自己負担しなければならないということになりますね。 もちろん、病状が一番気になることですが、金銭的なことも家族にとってかなりのストレス要因になることも忘れてはならないことだと思います。 |
2000年6月10日 合併症(肺炎)を発病 |
※ 今振り返って思うこと 当時一番恐れていた合併症が出たと医師から告げられた時は、今後どうなってしまうのか、もうA男と普通に会話することもできないのか等いろいろ考える一方で、まだ現状を信じ切れないというか他人事のように聞いている冷静な自分も居たりして、「こんな程度の『想い』しかないものか」と自責してもいました。 医師や看護スタッフに対する菓子折等の謝礼については、諸説いろいろと聞きますが、この時は受け取りを断られることが分かっていても「(家族の)気持ちを表現することで安心できる」心理を私たちが得るために行ったという感じです。 ただこの時に限らず、拒まれたら、無理に受け取ってもらおうとせずに引き下がり、もしも”ホイホイ”と受け取るような病院であったならば、病状が安定したら直ぐに何か適当な理由を作って、転院させてもらうという考えが私にはあります。 |
2000年6月12日 術後検査の説明と同意書の提出 |
※ 今振り返って思うこと 「ヤマは越えた」と言われたものの、依然として痛々しいままの姿を見るとそう安心できるものではありませんでした。 ただ、看護師さんの話や握り返してくる手の力強さに希望を感じることができ、そういった状況でもうれしかったのを覚えています。 それにしても、同意書へのサインには気をつかってしまいます。 スタッフにしてみれば日常茶飯事であるとはいえ、こちら側にしてみれば、万が一でも何かあった時にそのサインが持つことの意味についていろいろと憶測してしまったりします。特に私は、もともと心配性だったりしますので。 |
2000年6月13日 術後検査の実施とその結果 |
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2000年6月14日 一般病棟へ移動 |
※ 今振り返って思うこと 私としては、術後2週間は、要注意の状態が続くものと認識していたので、この日の一般病棟への移動には少々戸惑いました。救急救命センターの定員数の都合等で移動を余儀なくされたのかもしれません。 移動して間もない頃は、救命センターよりも一般病棟の方が軽く扱われるだろうという先入観が強かったため、この日のノートには、「”観察室”とは名ばかりで、ほとんど監視されていないような状態に感じられ、スタッフの方もあまり親切とは思えない。」等と書き残していた程です。 しかし数日後には、それらは私の思い違いであることに気がつきました。 看護師さん達は、見舞っている私たちに気をつかわせないように注意しながら、それとなく見守っていて下さったようです。私は、それまでの思いを口に出さないで良かったと反省すると共に、当初の失礼を心中でお詫びしました。(当初のノートの記述も、いまは二重線で消してあります。) |
2000年6月15日 医師より検査(6月13日実施)結果等の説明を受ける |
※ 今振り返って思うこと この日初めて、「意識は戻るだろう。」と医師から言われたことで、ちょっとではありますが、家族一同、ホッとしました。 ”感覚がある証拠”と言われると安心できた反面、やはりその痛そうな表情や仕草を見ると辛かったです。 しかし、そういったことも贅沢な悩みと受け取らないといけないのかもしれませんね。 |
2000年6月18日 問いかけに返答する |
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2000年6月20日 呼吸器が外れる |
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2000年6月21日 医療費支払い |
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2000年6月23日 明確に返答する |
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2000年6月24日 呼吸器が完全に外れる |
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2000年6月26日 観察室から一般病室へ |
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2000年6月27日 かなりはっきりとした会話が可能となる |
※ 今振り返って思うこと このころ(2000年6月18日〜27日)は、本人とのコミュニケーションが可能になってきたことで、少々救われた気分になれたと思います。 ただ、見守る者にとっては、点滴や呼吸器といった類の”普段見慣れないもの”を付けられている姿や「拘束」されている姿は治療のためやむを得ないと分かっているにしても、我々としては目にするのは辛いものでした。(当時、子細まで逐次メモしているところにもそういった心情が表れていると思います。) |
2000年6月28日 リハビリ開始 |
※ 今振り返って思うこと 昼間には、リハビリ開始と聞きまたちょっと安心したりもしていたのですが、帰宅して落ち着いたところに電話を受けたりするとちょっとまた心配になったりしました。 |
2000年6月29日 水頭症のため、シャント手術を薦められる |
※ 今振り返って思うこと 主治医には、終始図示を交えながら手術について説明戴き、内容も大変分かり易かったです。 頭部と腹部を管で繋ぐたいそうな手術なんですけど、私たちも安心して聞いていられました。 なお、シャント手術など専門的な事項については、植田敏浩氏のHP【脳卒中の治療最前線】などをご参照願います。 |
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