第一部 2000年6月

くも膜下出血の発症から自宅復帰まで(2000年6月5日〜2000年12月5日)





 未だ執筆途中ですが、全体が完成するまでずっとオープンしないのも良くないと思い、できたところまでで随時公開して参ります。


 なお、看病及び介護の記録はメールマガジンにて連載してゆきながら、その内容を本サイトに整理・掲載していく予定です。 よろしければ、メールマガジンへの読者登録をお願いします。


  
  
  
  
1
2
3
4
5
突然の発症と緊急手術
6
手術後面会
7
2日目の容態
8
3日目の容態
9
10
合併症(肺炎)
11
12
医師より説明
13
術後検査実施
14
一般病棟へ
15
検査結果報告
16
17
18
反応する
19
20
呼吸器
21
医療費支払
22
23
明確に返答する
24
呼吸器外れる
25
26
一般病室へ
27
会話可能
28
リハビリ開始
29
医師より説明
30
  

■ 日 々 の 記 録 ■


2000年6月5日 入浴中の突然の発症と緊急手術
■17:?? A男いつものとおり入浴。
 今、振り返り思い出してみると、入浴中にすごく大きな音がして、私を呼ぶ声がしたような覚えもあります。
しかし、その時は、仕事中だったこともあり、あまり気にかけないで済ませてしまっていました。
(今では、とても後悔しています。)

■18:15頃 発見
 仕事が片づき、食事を先に始めつつA男が風呂から出てくるのを待っていた。
が、なかなか出てこない。見に行くと、A男が洗い場で倒れているのを発見。
直ぐに119番通報。
(大きく、小刻みな)激しい息づかい。手足に力無し。目は開いたまま。呼びかけるも声無し。反応無し。
 狭い洗い場のため、A男の足がつかえて扉が開かず。
出入り口の隙間から中を覗き見ることしかできない私は、少々焦った。

■18:30頃 救急車到着
 なんとか扉の隙間から風呂場へ入り、A男の重い体をづらした。
そしてやっと扉を開けられたちょうどその時、救急車が到着。
 とても一人では浴室から運び出すことはできず、救急隊員3人がかりでA男をリビングに運び出す。
そしてA男を担架に移し、裸の体にシーツをかけて救急車まで運んだ。
リビングの絨毯が失禁のため濡れていた。

■18:50頃 救急車移動中
 呼吸器を手でよけてしまったり、数回起き上がったりする。左右の足をさするが反応無し。目は開いたまま。私や救急隊員の方が呼びかけるも声無し。
救急隊員の方からは、「最悪、脳内出血だと思われる」と告げられる。
 救急隊員の方は、はじめ在住市内にある病院に受入要請をされていたようだが、断られてしまった様子。
が、幸いにして隣接市にある病院で受入てもらえることになった。
(今思えば、在住市内にある病院には受入を断ってもらえて本当に良かったと思っている。ちなみに、この病院については、第三部に登場予定。)

■19:15頃 隣接市にある病院に到着
 運ばれた部屋には、同じ救急患者と思われる人が既に二人横になっていた。
看護婦さん達には日常の出来事なのだろうか。同僚と冗談を言いながらも、てきぱきと対応をされている。
 その会話にムッとしつつ、心配顔でみつめていた私に気が付いた看護婦さんに促され、私は廊下で呼ばれるまで待つことになる。その間、仕事に出ている家族に至急病院まで来てもらうように連絡等した。

■19:50頃 CTスキャンの結果
 医師より呼ばれ、CTスキャンの結果を告げられる。
30歳にもなって恥ずかしいが、一人で聞いて何か判断を迫られるのが嫌で一度は、もうすぐ来るであろう家族が来るまで待ってもらうように頼んだ。が、医師が強い目で私に「そんな時間は無い!」と訴えるので、私も自分を叱責して一人で話を聞く決心をした。

以下、医師談。
 
「右側頭部の重度の脳出血と思われる。この病院でも、手術可能だが、現在他の手術中で対応することが出来ない。そのため、近隣の医療機関に受入を要請しているので、受け入れ先が決まるまでこのまま待つように。」

■20:40頃 受け入れ先の病院が決定

■20:50頃 病院へ向けて出発
 医師、駆けつけた家族と共に救急車に乗って、受け入れ先の病院へ向けて出発。
車中、先程と同様にA男は何度も起き上がる。目は開いたままだが、やや閉じ気味。
 医師によると、「痛み止めは射っていますが、かなり痛いと思います。」とのこと。
私はA男の手を握りながら宛てもなく祈っていたが、到着して降りる頃にはA男の強かった手の力も弱くなり、また痛み止めも切れたらしく、A男はかなり苦しそうな表情をしていた。

■21:15頃 受け入れ先の病院の救命救急センターに到着
 病院に着くと、同乗してくださった医師が救急治療室内に診断書(紹介状?)をもって駆け込んでいった。(まさにリレー走者がバトンを次走者に渡すような勢いだった。)
 私達は、研修医と思われる人からA男の過去の病歴、現在の通院状況等を確認される。
 家族とはいえ普段、あまり話もしていなかったので、分からないことばかりで恥ずかしかった。
親類縁者に電話することで、なんとかA男の過去の病歴を突き止め、返答した。
 現在の通院理由については通院していた病院に電話したが、出てもらえず、結局分からずじまい。
(ちなみに、その後も日を改めて何度か電話したが対応してもらえず、”ホームドクター”だと信じてA男がこれまで定期的に通院していたのは何だったのだろうと今でもやるせなさを感じずにはいられない。)

■22:00 医師より病状説明
診断の結果、重度のくも膜下出血で、手術をできる状態であるかを確認するための検査を受けることを勧められる。検査には1〜2時間かかるとのこと。「検査の説明と同意書」に署名押印。

■23:50 検査結果を聞く
検査終了後、医師団の長い会議の後、説明を受けた。

以下、医師談。
「脳動脈瘤に破裂の危険性がある。
また、出血が多く、水頭症のため、緊急手術(脳動脈瘤クリッピング術)の必要性がある。
手術の難易度は、切開してみないとハッキリ分からないが、手術の種類としては、ポピュラーなものである。後遺症が残る可能性も有る。特に意識レベルが低かったので1ヶ月位は要注意です。」

図を書きながら、とても丁寧に説明をして戴き、緊急事態ながらも少し安心できた。

 「手術の説明と同意書」と「輸血と血漿製剤の輸注に関する同意書」に署名押印して、私達はそのまま手術が始まるのをしばらく待つことになった。


※ 今振り返って思うこと

 当日は特に変わった兆候のようなこともなかったと思うのですが、入浴前にちょっとした口論があり、それが悪かったのかなあと悔やむことがあります。

 発見した時のことは今でもかなり鮮明に覚えています。
特にA男の荒い息づかいは救急車が来るまでの間、風呂場に響きわたり、私を一層焦らせました。
 後々、痛感したことは、風呂場の扉は引き戸か折り戸にすべきであること。
今思えば、当たり前のことではありますが、当時はまだその必要性を感じられませんでした。
まだ、そんなことを心配する必要がある程の年齢とは誰も思ってもいませんでしたから・・・。


2000年6月6日 手術後、救命救急センターで面会
■0:23 手術室に入るのを見送る
  口に管をあてられ、頭髪は全て剃られていた。
 麻酔のため、安らかに眠っていたので、安心する反面、「よいよ始まるんだ・・・。」という緊張感のようなものが起こりました。手術は、4〜5時間程かかるとのこと。

 手術中は、入院手続きを行い、親族の待合室にて待機していましたが、手術開始から1時間位経ってから、今回の経緯を記録しておこうと思い立ち、病院近くの24時間ストアにてノートと筆記具を買い求め、それまでのことを思い出しながら書いていました。
(この記録が、このマガジンの元になっており、現在もことある毎に書き加えています。)
 開始から5時間を過ぎて外が明るくなっても、まだ手術が終わらないので、不安が募りましたが、以前読んだ、飯田史彦氏の著書の記述を思い起こし、「A男にとって最善の状態になりますように・・・」などと心の中で何度も祈っていたのを覚えています。

■6:30 手術終了
 
■6:43 手術室より搬出
 外観からは成功したのか否か分からず、また一瞬しか目に出来なかったので、医師からとにかく早く説明を受けたいという思いが募ったのを覚えています。

■7:30 執刀医より結果の説明を受ける (約8分間程)
 頭髪生え際より耳付近まで約15cm程切開した。

 頭骨を4箇所開き、右前頭葉・側頭部の血管を表出させた後、次の2つの処置を行った。
  1. 急性水頭症に対する脳室ドレナージ(水抜き)
  2. 脳動脈瘤クリッピング術(金属でコブの閉鎖)

 今後は、次のようなことが考えられる。
  1. 意識障害
  2. (右脳傷のため)左片麻痺
  3. 肺炎、心不全等の合併症

 また、くも膜下出血後は、一般的に脳血管レン縮(血管が縮む症状)や脳梗塞が発生する恐れがあるため、2週間は様子を看る必要がある。
 病院から連絡がなければ、「静観状態である。」と思って戴いて良いとのこと。

 なお、くも膜下出血の場合、1/3は、病院へ着く前に他界し、もう1/3は元気に退院出来、残りの1/3は、後遺症を持ちながらも退院できるという話も聞きました。

■9:50〜10:15 集中治療室にて手術後初めて面会
 看護師さんによると、手術後麻酔が一度切れた際、暴れたとのこと。救急車内での様子が思い出され、やはり痛むんだろうと気になりましたが、面会したこの時は、CTスキャン受診のため、再び麻酔したところで、静かに寝ており、両手を動かし、握った手も比較的強い力で握り返すなど、頭も動かしていたし、面会者全員で名前を呼んだら、応えたようにも見えたので、なんとかなるのではとも思えました。
 ただ、麻酔が切れた時のことを想定してか両足は揃えて固定されていたのを見るとやはり現実は厳しそう・・・とも。
 枕に血がしみ出ていたのが気になったが、”血抜き”であり、これは問題ないとのこと。
 また、手術では、輸血は行わなかったとのこと。

■10:20 一時解散
 とりあえず、外勤の者は、出勤し、時間のある者は、入院に必要なものの用意をすることになり、一時解散。
 ちなみに、病院から用意するように指示されたものは以下の通り。
  1. 紙おむつ(長方形型とパンツタイプとを各10枚ずつ)
  2. お尻ふき1袋
  3. バスタオル5〜6枚
  4. 電気髭剃り
  5. 歯ブラシ、歯磨き粉、歯磨き用コップ
  6. ティッシュペーパー1箱


※ 今振り返って思うこと

  手術の立ち会い、集中治療室への入室等々、全てが初めての経験でしたので、不安を募らせながらとても長い夜を過ごした記憶があります。
 また、時間帯や展開が、まるでテレビドラマのようであったため、現実であることがピントこないようなところも正直ありました。
 集中治療室で手術後初めて面会でき、最悪の事態は免れたものの、先々のことを考えると見当もつかない状態に変わりはなく、ただ信じながら動いていたような感じです。


■12:00〜12:35 再度医師から説明
 A男の兄弟が知らせを聞き、病院に駆けつけたので、彼を交えて医師が始めから再度説明をして下さいました。(手術後のCTスキャンを提示しながら)
  1. 脳が腫れている状態
  2. 脳内の出血、出水ともやや少なくなってはいる
  3. 脳内に空腔があり、埋まるまで時間がかかるかも
  4. 輸血は今のところしていないが数日中は容態変化により、輸血することもあり得る
  5. 発症より2〜3日後から2週間は、脳血管レン縮の可能性がある
  6. 手術後のコブ(脳動脈瘤)付近の状態はまた後日にCT検査を行う予定

 また、A男の兄弟よりA男の母親(41歳)、長姉が脳卒中で他界したことや一族皆高血圧であること等を聞いた。
 医師からは、A男が最近飲んでいた薬を確認するように再度指示を受けた。

■12:50 かかりつけ医へ電話
 通院していた病院に電話したが、出てもらえず、引き続き確認できず。

■14:00 全員帰宅

2000年6月7日 発症2日目容態
■午前中 服用していた薬の確認と保険証券等の確認
 かかりつけ医より処方されたと思われる薬と保険証類(健康保険証、生命保険証券)とをA男の戸棚から探し出す。
 薬については、服用するものと処方されても服用しないでおくものとを薬剤師であったA男は自分で判断して分けていたらしい。服用しないでいた薬のうち、ずっと以前のものも捨てずにとっていたため、どれが最近に処方されていた薬なのかを特定することができなかった。医師に渡すため、そういった情報も含めて分かる限りのことをA4版1枚にまとめた。
 生命保険については、入院保障特約と手術保障特約とが利用できることが分かった。

■13:50 救命救急センターで面会(30分間程)
 本人は顔を見る限りでは血行良好で、熟睡中。また、口に付けていた管も外されている。
以下、看護婦さん談。
「口への管を取れたのは早い方。明日には鼻の管も取れるかも。午前中は大暴れしたので、両手両足を固定させてもらっています。声を掛けると、目を開けて『ア〜・・・、ウ〜・・・。』と返事をされました。」

 面会中も左足を蹴り上げたりして我々を驚かせたり、右手を握ると強い力で握り返した。血圧は90前後で安定(?)。
 看護婦の○○さんに午前中作成した薬メモと、数枚のバスタオルを追加で渡し、退室した。

■14:35 帰宅
 


※ 今振り返って思うこと

 血の滲んだ包帯に包まれた頭部、ベットにつながれた両手両足、手や足首への点滴、ベット周辺の医療機器がだす不規則な”ピッ・・、ピッ・・・”という音等、当たり前ですが、救命救急センター内はなかなか心休まるところではないです。
 ただそういった状況でも、スタッフの方に元気良くまた頼もしく対応して戴けたので、とても安心できたように記憶しています。


2000年6月8日 発症3日目容態
■午前中 役所、保険会社へ問い合わせ・確認
 とりあえずできることとして、金銭的なことを調べるため、以下の4箇所に電話にて問い合わせしました。

1.○○生命保険会社(住所近くの営業所)
 A男が加入している保険では、入院5日目以降分が支給対象になっている。給付は、医療費支払いの都度でも良いが診断書発行費(A男が入院している病院では1通5000円)も馬鹿にならないので、退院後一括で請求された方が良いでしょうと薦められる。給付金は、請求受付から約2週間後に指定の銀行口座へ振り込まれる。とりあえず、必要書類一式を郵送してもらうことにした。

2.市役所 国民健康課
 健康保険の「高額医療費」扱いは、年齢規定(70歳以上)に当てはまらず、 A男の場合は受けられない。但し、67〜70歳で、「マル老(老人医療証)」の申請をしている者については、1日あたり「1,200円+食事代+医療行為と見なされない病院のサービス料」のみを自己負担するだけで良いことになっている。つまり、前記以外の金額については給付してくれる。
A男の生年月日を伝えたら、その場で調べてくれ、A男が「マル老(老人医療証)」の申請をしていたことも分かった。昨日は証書を見つけることは出来なかったが、例え無くしていても再発行してもらえるとのこと。老人医療証を提示せずに医療費を支払ってしまった場合は、後日、領収書を添えて請求申請すればよい。

3.救急車で初めに運ばれた隣接市にある病院
 医療費の支払い等について問い合わせ。
 支払いは、受付窓口にて時間のある時で良いとのこと。金額は、10,825円。(注)

4.入院している病院
 現時点までの医療費の支払い等について問い合わせ。
 初回(6/15締め分)支払いは、約70万円で、請求書は6/20頃発行されるとのこと。ちなみに、6/5からこの日(6/8)までの概算は50万円程で、集中治療室にいる間は、1日あたり16,000円〜20,000円程度、一般病棟でのベット代は、1日あたり3,200円かかるとのこと。(注)



(注)3、4に記載している金額はいずれも健康保険証のみを提示した場合の金額になります。
 6月12日の欄でも触れますが、A男の場合は、2にある「老人医療証」を支払い時に提示したので、当時実際に支払った金額とここで紹介した金額とは異なっています。


 以上を電話にて確認した後、もう一度A男の戸棚を調べてみたところ、処方薬の解説書と定期検診の結果(平成6年から平成11年までの分)が見つかった。

■17:50 救命救急センターで面会(30分間程)
 左右両手とも触れると強く握り返す。特に右手はリズムをつけて同程度の力で繰り返し握り返す。声を掛けると、右眼、左眼の順に薄く瞼を開く。一時は頭をしきりに左右に振ったそうで、テープで呼吸器を付けていても外れてしまうため、この時は紐で呼吸器を固定していた。
 「なんだ?」、「アウウ・・・。」等なにかしゃべったように見えた。血圧計は85〜122(ほとんど90前後の数値)を表示していた。
以下、医師談。
「現在のところ(CT等の術後検査)は順調。元気すぎて動くので困るくらい。そのため薬により時々眠らせることもある。但し、レン縮が始まる恐れがある明日明後日(6/9,10)が要注意。今現在、レン縮を防ぐ薬を点滴し続けている。現在は良い薬があるので希にしかレン縮は起こらないが、レン縮がひどく現れると寝たきりや半身不随等になり得る。」


 午前中に見つけた処方薬の解説書と定期検診の結果(平成6年から平成11年までの分)とのコピーを医師へ渡して一旦退室。

■19:25 救命救急センターで2回目の面会(30分間程)
 いびきをかきながら睡眠中。看護婦さんによると暴れたので薬も使ったとのこと。右手を強く握る。手、腕をしばしば動かし、それで医療機器のコードを絡め、抜いてしまいそうでなんだか心配。ミルクコーヒーのような色をした液体を点滴されている。足も良く動かしている。左足だけがすごく腫れているというか張っている(浮腫んでいる?)ように見える。一度目を開けたので呼びかけたが聞き取っているのかは分からなかった(無反応)。

■21:10 帰宅
 


※ 今振り返って思うこと

  患者が若年者の場合には当然「老人医療証」を持っていない訳ですし、自己負担比率も異なりますから、ここで紹介している金額以上を自己負担しなければならないということになりますね。
 もちろん、病状が一番気になることですが、金銭的なことも家族にとってかなりのストレス要因になることも忘れてはならないことだと思います。

2000年6月10日 合併症(肺炎)を発病
■13:15 救命救急センターで面会1回目(30分間程)
 本人は、熟睡中。
 今までの口にあてるタイプの呼吸器は外され、胆が詰まるのを避けるため、両鼻腔に管を入れることで呼吸を助けられている。
 また、両肩を押さえ付けていたベルトも外され、代わりに胸部を帯びみたいなもので押さえられている。  両脇をアイシングされているためか、両方の掌は非常に冷たい。
 看護婦さんによると、朝は動いて大変だったため、(今は)薬で眠ってもらっているとのこと。

 受付に「マル老(老人医療証)」を提出した。 (事務員の方が、保険証と一緒に2部ずつコピーを取っていた。)

■14:50 主治医より病状の説明を受ける
以下、主治医談。
「 合併症として、肺炎を患っており、今後心不全、脳のむくみ、出血等発症の恐れがある。
 6月8日、9日と体温が38〜39度あり、不整脈もたまに診られる。
 6月13日頃に造影剤を使う(手術前に行った検査と同じ)検査を行う予定。」


■15:25 救命救急センターで面会2回目(15分間程)
 本人は、依然熟睡中。
 足に再び点滴をされている。

 退室の際、スタッフの方に菓子折を渡そうとするも、規則を理由に丁重に断られた。

■15:45 帰宅
 


※ 今振り返って思うこと

 当時一番恐れていた合併症が出たと医師から告げられた時は、今後どうなってしまうのか、もうA男と普通に会話することもできないのか等いろいろ考える一方で、まだ現状を信じ切れないというか他人事のように聞いている冷静な自分も居たりして、「こんな程度の『想い』しかないものか」と自責してもいました。

  医師や看護スタッフに対する菓子折等の謝礼については、諸説いろいろと聞きますが、この時は受け取りを断られることが分かっていても「(家族の)気持ちを表現することで安心できる」心理を私たちが得るために行ったという感じです。
 ただこの時に限らず、拒まれたら、無理に受け取ってもらおうとせずに引き下がり、もしも”ホイホイ”と受け取るような病院であったならば、病状が安定したら直ぐに何か適当な理由を作って、転院させてもらうという考えが私にはあります。

2000年6月12日 術後検査の説明と同意書の提出
■10:20 看護師さんより電話
 「6月13日に検査予定のため、承諾書を書きに来てください。」とのこと。

■14:45 救急車で最初に運ばれた隣接市にある病院へ寄り、処置費支払い
 当初10,825円と言われていたのが、「老人医療証」(6月8日の記事参照)を 提示して、再計算してもらった結果、2,585円になった。

■15:15 救命救急センターで面会(30分間程)
 ベットの位置がセンター内スタッフスペースの正面に移動されていた。
「要注意状態ということだろうか・・・。」等と思いながら、ベットへ近づいた。

 たまに痛そうな表情をみせるものの、A男の手を握るとより強い力で私のその手を握り返してきた。
 何度か目が合い、声を掛けるがそれには反応無く、目をつぶってしまう。
 口が乾いているせいか、舌に白いもの(舌苔?)が目立つ。

 看護師さんによると、「依然として意識レベルにムラがあるものの、良好な時には『手を開いてください。閉じてください。』等と声を掛けると、その通りに動作されることもある。」とのこと。

■16:05 医師より検査について説明を受ける
 以下、医師談。
「 ドップラーでみる限り、レン縮は特に生じていない。
 重度のくも膜下出血であったが、6月12日のCT結果を見る限りでは、 出血も止まり、頭内の出血血液の濃度もかなり薄くなっている。
  そのため、頭に付けていた血を抜く管も6月12日より外している。
 肺炎の症状は快方へ向かっている。(ヤマは既に越えたと思われる。)
 今後も慢性的な水頭症、レン縮が発生しうる。慢性的な水頭症に対しては、脳ヘルニアから寝たきり状態になることも考えられ、対応策としては、頭内の水を胃へ逃がす『シャント術』がある。
 また、レン縮に対しては、抑制剤治療をすることができる。
  今回の検査により、レン縮の有無と、もしあればその発生箇所を調べたい。
 動脈硬化が進んでいる患者の場合、検査時に血管の汚物飛散により脳塞栓になる可能性が0.数%ある。ただA男は、既に一度受けている(6月5日)し、問題ないだろう。」


「検査の説明と同意書」へ署名・押印して帰宅。


※ 今振り返って思うこと

 「ヤマは越えた」と言われたものの、依然として痛々しいままの姿を見るとそう安心できるものではありませんでした。
 ただ、看護師さんの話や握り返してくる手の力強さに希望を感じることができ、そういった状況でもうれしかったのを覚えています。
 それにしても、同意書へのサインには気をつかってしまいます。
スタッフにしてみれば日常茶飯事であるとはいえ、こちら側にしてみれば、万が一でも何かあった時にそのサインが持つことの意味についていろいろと憶測してしまったりします。特に私は、もともと心配性だったりしますので。


2000年6月13日 術後検査の実施とその結果
■13:20 医師から検査結果について説明を受ける(電話にて)
 以下、医師談。
「 検査は無事に終了。特に大きなレン縮は無く、順調と言える。
 このまま術後2週間以内にレン縮等が生じなければ頭については安心できる。
 現在は、未だ熱があるため、合併症(気管支炎、肺炎)の心配は続いている。」



2000年6月14日 一般病棟へ移動
■11:00 面会1回目
 11:00に医師から検査結果について説明を受けられると言われたので、その時間に合わせて、病院へ行った。(A男の兄弟も駆けつけてくれた。)
 しかし、急患が入ったらしく、13:00を過ぎても担当医が現れず、この日の検査結果説明は諦めることになった。
 この日の朝より一般病棟へ移動されていた。点滴、心拍数等の計測器類に変わりはない。病室は、ナースステーションの直ぐ隣でガラス壁になっており、「観察室」と称されている部屋だった。ベットが3台置いてある部屋を1人だけで利用していた。

■15:00 面会2回目
 病状は12日に見舞った時よりも素人目には悪くなっているように見受けられた。そのため、今回の一般病棟への移動に対しては、かなり不満と不安を感じてしまった。
 まだ術後1週間しか経っていないのだから、せめてレン縮、合併症の注意期間が過ぎるまで(もう1週間)は集中治療室に居させて欲しかった。

 【以下、私見。】熱がひどくなっているように見える。(両脇を氷で冷やしている。)時折咳(?)もしている。
12日同様に痛そうな表情をしばしば見せる。脈拍を伝える音が不規則であり、相変わらず不整脈があるようだ。
 何度か目が合い、声を掛けたりもするが、反応は返さない。

 紙おむつ(テープタイプ)を追加して、帰宅。


※ 今振り返って思うこと

 私としては、術後2週間は、要注意の状態が続くものと認識していたので、この日の一般病棟への移動には少々戸惑いました。救急救命センターの定員数の都合等で移動を余儀なくされたのかもしれません。
 移動して間もない頃は、救命センターよりも一般病棟の方が軽く扱われるだろうという先入観が強かったため、この日のノートには、「”観察室”とは名ばかりで、ほとんど監視されていないような状態に感じられ、スタッフの方もあまり親切とは思えない。」等と書き残していた程です。

 しかし数日後には、それらは私の思い違いであることに気がつきました。

 看護師さん達は、見舞っている私たちに気をつかわせないように注意しながら、それとなく見守っていて下さったようです。私は、それまでの思いを口に出さないで良かったと反省すると共に、当初の失礼を心中でお詫びしました。(当初のノートの記述も、いまは二重線で消してあります。)


2000年6月15日 医師より検査(6月13日実施)結果等の説明を受ける
■15:30 担当医から6月13日に受けた検査の結果とその後の容態について説明を受けた。
 以下、医師談。
「 検査は無事に終了。特に大きなレン縮は無く、順調と言える。
 このまま術後2週間以内にレン縮等が生じなければ頭については安心できる。
 現在は、未だ熱があるため、合併症(気管支炎、肺炎)の心配は続いている。
(以上は、6月14日の電話とほぼ同じ内容。)
 意識については、明言できないが、(今朝も点滴針を自分で抜いてしまう程に)身体をしばしば動かしているので、経験的には(時期については、見当つかないが)戻るものと思われる。
 切開した頭皮を止めていたものを一部を残して本日(15日)外した。
(頭内に出血した血を抜くために付けていた管があったが、その付近には未だホチキス針のようなものが付いていた。)
 出血の原因となった動脈瘤は理想的に無くなっている。
 不整脈が続くのは今回の疾病ばかりが原因とは言えない。
 痛そうな表情をするのは、「痛い」という”感覚”がある(分かる)という証拠だと言える。」


■16:00 面会
 相変わらず、痛そうな表情をみせる。
紙おむつの周囲がかゆいらしく、左手(ちなみに、A男の利き手は右手)で度々掻いている。
 鼻に管を差し込んで胆を吸い出されている時、両眼を見開いてとても驚いているような表情をした。(それを見ている我々も驚いたが。)
 手を握る力は、一時よりは強くない。力まなくてもよくなったということだろうか。
 目を開いた時、声を掛けたりしたが、この日も反応は返してくれなかった。



※ 今振り返って思うこと

 この日初めて、「意識は戻るだろう。」と医師から言われたことで、ちょっとではありますが、家族一同、ホッとしました。
 ”感覚がある証拠”と言われると安心できた反面、やはりその痛そうな表情や仕草を見ると辛かったです。
 しかし、そういったことも贅沢な悩みと受け取らないといけないのかもしれませんね。


2000年6月18日 問いかけに返答する
■13:00 面会
 以下、メモより。
  1.  「分かる?」との問いかけに、「分かる」とハッキリと返答した。
  2. 頭部の包帯等は、全て外されており、剃られた頭髪が1cm程伸びているのも見て取れた。
  3. 切開跡は、ほとんど目立たず。
  4. 右おでこの上あたりがふくらんでいる。
  5. 鼻に挿されていた管が外され、再び呼吸器をされていた。
  6. 呼吸器が気になるのか、口を”フガフガ”としきりに動かす。
  7. 両手首だけでなく、両足も固定されていた。
  8. 目を”ギョロッ”とさせたり、痛そうな表情を時折みせる。
  9. シャックリ(?)をして腹部をヒクヒクと動かす。

2000年6月20日 呼吸器が外れる
■午後 面会
 以下、メモより。
  1.  「分かる?」との問いかけに、「分かる」とハッキリと返答した。
  2. なんだか怒っているような表情を見せる。
  3. 何か言っているようだが、聞き取れず。
  4. 直ぐに起きあがろうとする。
  5. 呼吸器は外されていたが、再び鼻に管を付けられた。
  6. 手の点滴針を抜いてしまうため、右肘に”添え木”のようなものを付けられていた。
  7. 下痢気味とのことで、オムツ(テープパンツタイプ)補充。
2000年6月21日 医療費支払い
■午後 医療費(6月5日〜6月15日分)支払い。
 6月9日電話で確認した時には、50〜70万円と言われていたが、”マル老”を提示して再計算してもらったところ、17,720円であった。

■15:30 面会1回目
  1. 胆の薬を吸飲中。話しかけたが、分かっているか否か不明。(途中パイプを外してしまったらしく、床に液体がもれていた。)

■16:45 面会2回目
  1. シャックリを繰り返し、息苦しそうであった。
  2. 両膝を立てて、目を開いていた。
  3. オムツ(シートタイプ)補充。
  4. 依然として暴れるらしく、両肩を固定されている。
  5. 点滴(アミノフリード)は、右手のみ。
  6. 右頭部に2つの金属製クリップで皮膚を止めている。
  7. 帽子タイプのサポーターを被らせてもらうが嫌がる。
  8. 濡れタオルで顔を拭いてもらっていた。
  9. 今日は、最後まで面会者の問いに反応してもらえなかった。(でもちょっと笑ったかも)
2000年6月23日 明確に返答する
■午後 面会
 以下、メモより。
  1.  「誰だか分かる?」との問いかけに、「××(問いかけた者の名前)だろ」とハッキリと返答した。
  2. 手を握り返す時、力の加減がわかるようになり、常識的な強さで握れるようになった。
  3. 何か話しかけてきたが聞き取れなかったため、「入れ歯をしないと聞き取れないよ」と言ったら、確かに笑った。
  4. (面会者の言っていることは分かっているように見受けられたので)、「(病院の費用について)心配しないで大丈夫。」と話したところ、ホッとしたような表情を示した。
  5. いずれにしても、日に日に良くはなっているようだ。
2000年6月24日 呼吸器が完全に外れる
■14:05 面会
 以下、メモより。
  1. 鼻に挿されていた管も外され、呼吸器も付けられることもなくなった。
  2. 胸の計測機器も外されている。
  3. 右頭部に付けられていた2つの金属製クリップも外されていた。
  4. 左手首に点滴(ソルラクト)中。
  5. 看護師さんによると、口からも栄養液を取っているらしい。
  6. 熱があるそうで、氷で頭部及び両脇を冷やしている。
  7. 何か言っているようだが、聞き取れず。
  8. (発病前とても可愛がっていた)孫の写真を見せるが反応無し。
  9. 左右の手首のみを以前に比べれば大夫弛めに拘束されていた。
  10. 右あご付近が痒かったらしく、体を曲げて拘束されている左手で掻いていた。
  11. 血圧測定の際、看護師さんをギョロッと睨むような表情をしたので、看護師さんに笑いながら怒られたりしていた。
2000年6月26日 観察室から一般病室へ
■6月27日面会の際、前日(6月26日)より、観察室から一般病室(4人部屋を3人で使用)へ移っていると看護師さんから知らされた。
2000年6月27日 かなりはっきりとした会話が可能となる
■14:05 面会(1回目)
 以下、メモより。

  1. 病室をのぞき、本人と目が合うと、「ヨッ!」と微笑む。
  2. 何か意味のあることを言っているようだったが、聞き取れず。
  3. 数分後、直ぐに眠り始めた。
  4. 看護師さんより、食事が始まったので、箸などを持ってくるように言われた。

■15:00 面会(2回目)
 以下、メモより。

  1. 消耗品を買って戻ると目を覚ましていたので、いくつか質問してみた。

    (問い)「いつからここ(この病室)に移ったのか?」
    (本人答え)「昨日から」

    (問い)「なんか身体が綺麗になっているね。風呂入ったの?」
    (本人答え)「風呂入った」

  2. 24日同様に、(発病前とても可愛がっていた)孫の写真を見せると微笑んだ。
  3. だいたい「10分寝て、10分起きる」を繰り返す。
  4. 両手首は、依然として拘束されているが、点滴はなく、氷枕もない。
  5. (隣ベットの人のテレビの音がちょっと気になる程に大きい。。)

■17:15 帰宅
 「じゃあ、帰るね。」と言うと、「ご苦労さん。」と返答し、「これから、何処か行くのか?」と本人から逆に質問をされた。


※ 今振り返って思うこと

 このころ(2000年6月18日〜27日)は、本人とのコミュニケーションが可能になってきたことで、少々救われた気分になれたと思います。
 ただ、見守る者にとっては、点滴や呼吸器といった類の”普段見慣れないもの”を付けられている姿や「拘束」されている姿は治療のためやむを得ないと分かっているにしても、我々としては目にするのは辛いものでした。(当時、子細まで逐次メモしているところにもそういった心情が表れていると思います。)
2000年6月28日 リハビリ開始
■12:35 病院着 ナースステーションで食事中。
 車椅子に乗せてもらっている。箸など食事用具を届けて一旦退室。


■14:10 面会(2回目)
 未だにずっとナースステーションで食事中。
 途中、居眠りをしていたりもする。
 ちょっとだけ顔を合わさせて貰えたが、本人には分からなかった様子。
 雨空を指さして何か言いたそうそうな表情を見せた。
 これから、CTスキャンと聞き、今日の処は退出。
 リハビリ開始につき、「上履き」を持ってくるように指示された。


■21:00 病院より電話。
 明日、11:30より主治医から病状説明があるとのこと。


※ 今振り返って思うこと

 昼間には、リハビリ開始と聞きまたちょっと安心したりもしていたのですが、帰宅して落ち着いたところに電話を受けたりするとちょっとまた心配になったりしました。
2000年6月29日 水頭症のため、シャント手術を薦められる
■11:20 病院着 本人はリハビリ中のため、病室には居らず。


■11:30 主治医より病状説明
 以下、メモより。

  1. 術後、2週間より水頭症の症状有り。
  2. 今後、症状が終息していく見込みがないのでシャント手術を推奨する。
  3. 手術しないと、意識障害、歩行障害などが現れる可能性大。
  4. シャントとは、腹部に病気が生じない限り、体内に管を入れたままで、日常生活上、全く問題はない代物である。
  5. 手術に際し、全身麻酔の必要がある。既に経験済みで問題ないと思われるが承諾書の提出が必要。
  6. 現在の処、麻痺箇所は認められない。
  7. リハビリ目安は、1ヶ月位。自力で衣、食、トイレ、車椅子からベットへの移動、歩行ができるまで戻れば◎。
  8. 退院後も、たまにトンチンカンなことを言う位は、やむを得ないかも。


■12:00 再び病室へ。
 本人はリハビリから病室へ戻っていたがすぐに昼食が始まるため、我々は一時退室。

■13:30 再び病室へ。
 本人は睡眠中。時折目覚めた時、話しかけたが気が付かなかった様子。リハビリは結構疲れるのだろう。

■14:10 帰宅
 この日は本人とのコミュニケーションはあきらめて、「手術の説明と同意書」を提出して帰宅した。


※ 今振り返って思うこと

  主治医には、終始図示を交えながら手術について説明戴き、内容も大変分かり易かったです。
 頭部と腹部を管で繋ぐたいそうな手術なんですけど、私たちも安心して聞いていられました。
 なお、シャント手術など専門的な事項については、植田敏浩氏のHP【脳卒中の治療最前線】などをご参照願います。


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